六三四城的龍馬伝

六三四城的龍馬伝

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鹿児島県霧島市。霧島は瓊瓊杵尊(二ニギノミコト)、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、天太玉命(アメノフトダマノミコト)やその他多くの神々と共に高天原から豊葦原の中つ国に降りてこられた。これが高千穂であったという天孫降臨の伝説が残る。また、古くから名湯の郷としても知られ、多くの著名人、文人、墨客らが足跡を残しており、幕末の革命児坂本龍馬が妻おりょうと日本人初のハネムーンに訪れた場所として知られています。その2人が鹿児島に旅立つエピソードとしてあげられるのが[寺田屋襲撃事件]です。

薩長同盟の締結した翌々日の慶応2年(1866年)年1月23日、伏見の船宿[寺田屋]に薩摩藩士を装い宿泊していた龍馬らは百数十名の伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。異変に気付いたおりょうは、入浴中にもかかわらず裸に近い状態のまま飛び出しこの急を龍馬に知らせました。

おかげで龍馬は手傷を負いながらも無事薩摩藩邸に保護され、慶応2年(1866年)2月、寺田屋遭難時に自身の窮地を救い、藩邸に移った後も付き添い、看護につとめてくれたおりょうと中岡慎太郎(西郷吉之助とも)の仲介で結婚しました。この時、龍馬32歳、おりょう26歳でした。

その後、小松帯刀(西郷吉之助とも)のすすめで寺田屋時に負った傷の療養の為、鹿児島の【塩浸温泉】に湯治旅行をする事となりました。この旅が龍馬とおりょうが結婚を挙げた(諸説ある)直後だったことから、[日本初の新婚旅行]と云われるようになったそうです。

小松帯刀 (1835-1870)
薩摩藩家老



龍馬も浸かったとされる塩浸温泉
慶応2年(1866年)3月16日。龍馬とおりょうは薩摩藩士吉井幸輔の案内で霧島の旅に出発し、この日は【日当山温泉】に泊まったとされています。

翌17日、鹿児島の旅で2人がもっとも長く(延べ18日間)逗留した【塩浸温泉】に到着。塩浸のお湯は刀傷に効くとされ[寺田屋襲撃事件]にて負った左手の傷を癒したと伝えられています。現在でも【塩浸温泉】敷地には龍馬らが入浴したと云われている川沿いの小さな湯船が残されており、2人の湯治碑(ページトップ画像)が建てられています。


【塩浸温泉】滞在中に龍馬はおりょうと犬飼の滝にも訪れています。ここは奈良末期から平安初期の律令官僚、和気清麻呂公が道鏡の皇位継承を阻んだ為、道鏡擁立派の孝謙天皇の怒りをかい流されたとされている所です。近辺には清麻呂公を祭神とする和気神社や公が腰を掛けた[腰掛石]も残されています。龍馬は姉乙女宛の手紙に「蔭見(いんけん)の滝、其滝の巾五十間」と書き送っています。

龍馬は【塩浸温泉】を大変気に入り、10日間ほど泊まり、遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃つなどして過ごしたそうです。

現在、国道223号沿いの【妙見温泉郷】から県道470号線に入り2kmほど進むと、犬飼の滝を見下ろせる展望公園があります。

滝近くには【和気湯】と呼ばれる個人所有の温泉もあります。
ご好意で開放している温泉ですのでマナーを守りお入り下さい。寸志も忘れずに!
また【和気湯】横の中津川に【和気湯横の川湯】など自然湧出温泉も確認出来ます。



犬飼の滝近くにある和気湯

犬飼の滝と和気神社


栄之尾温泉 (緑渓湯苑) と硫黄谷温泉 (霧島ホテル)
【塩浸温泉】を後に龍馬とおりょうは吉井幸輔とともに小松帯刀の元に向かいます。 『小松帯刀日記』3月28日条によれば「吉井幸輔・坂元龍馬、塩浸より見舞として入来の事とあり」【栄之尾温泉】(現霧島いわさきホテル) に滞在する小松を龍馬と吉井が訪れたという記録があります。



そして、小松訪問の際に2人が宿泊したのが【硫黄谷温泉】(現霧島ホテル)だと云われています。

翌3月29日、龍馬はおりょうを伴い、天の逆鉾を見に高千穂登山をします。龍馬はその登山の様子を絵入りの書簡にしたためて姉の乙女に送っています。その書簡によると、天の逆鉾の彫り込みが天狗に似ていると言って二人で笑ったり、霧島神宮に参拝したとも書かれてあります。



山頂は見渡すばかりに壮観な景色が広がり、しばらく楽しんでいましたが、4月とはいえ体が冷えてきたので、2人は山肌一面に咲いたキリシマツツジの美しさを鑑賞しながら下山しました。この日は霧島神宮近くに一泊し、翌30日には吉井の待つ霧島温泉に戻り、4月1日に【塩浸温泉】、8日に【日当山温泉】を経て、12日に鹿児島に戻ったそうです。これが龍馬とおりょうの88日間に及ぶ新婚旅行と呼ばれています。

上:龍馬の手紙 左下:天の逆鉾 右下:霧島神宮